cornflowerの読書と映画と旅と勉強の日記

思いつくままに、備忘録として

五文足のアルピニストのすすめ

栄光の岩壁(上) (新潮文庫)
五文足のアルピニスト、芳野満彦さんが亡くなられたということを知ったのは、朝日新聞天声人語で。
山を愛した登山家は、やはり晩年も山を愛して、長野・山梨を訪れ、個展を開いたりされていたそうで、うちの母も、富士見の美術館で芳野さんに遭遇している。そのときの話しを繰り返し聞いて育ったからか、芳野さんは私にとって特別な登山家で、訃報の知らせに切なくなった覚えがある。それもずいぶん前だが。

『栄光の岩壁』は芳野さんをモデルに描かれたアルピニストの物語。「栄光」というか、私からしたら「妄執」の岩壁なのでは?というほど、この登山、今よりもっとハードルが高くて、まさに命がけで人生がけ。

まず話しの早い段階で(高校生時代)、遭難する。同行の親友は目の前で遭難死し、主人公自身も足指、足の一部を凍傷で失う。
もう、登山なんて止めればいいのに、その後も、登山をするために金策に駆け回り、失った足を補うために上半身を鍛え、装具を工夫して。
さらには、どんだけ山の近くにいたいのか、誰もいない山小屋で、一人寒さに震えつつ、冬籠もりすること1シーズンのみに非ず、といった展開で、ただもう、口を開けてあんぐり。もはや、狂気に近い。

冒頭で亡くなった親友は、「死の影」として度々登場。ファウストともエリザベートとも違って切ないのは、主人公が「死」に囚われている理由の一端に自責の念があるから。「死んだのはどうして親友だったのか。生きているのはどうして自分なのか。」
この人、大事なものを山に置いてきてしまったのかもしれない、そんなことを思い、切なくなった。

小説は、主人公がマッターホルン北壁の登頂に成功するところで終わっているのだが、後日談がある。主人公(芳野さん)と一緒に登頂に成功した広のモデルの登山家の方、続くアイガー登山にて亡くなっているのだ。

面白い小説ではある。魅力的なストーリーに引き込まれもする。ただ、読後、そういえば、これは、ドキュメンタリーでもあったのだ、と思い出して、居居心地が悪くなる。そういうタイプの小説。